
横溝春雄(よこみぞはるお)さん
埼玉県出身。高校卒業後、東京・神田の洋菓子店「エスワイル」での修業を経て23歳で渡欧。ドイツ、スイスほか、オーストリア「デメル」などで約5年間修業し、29歳で帰国。「新宿中村屋グロリエッテ」のシェフを11年務めた後、40歳を機に独立。川崎市・新百合ヶ丘にウィーン菓子工房「リリエンベルグ」をオープン。公益社団法人東京都洋菓子協会副会長。


▲右が店舗、左はティールーム。「作りたてお菓子をその場で味わっていただきたい」というシェフの想いから開設した。その奥の敷地には独立した厨房がある
―――お店の外観などは横溝シェフが考えられたのですか? じつは私はお菓子を作るだけで、それ以外の部分は昔から妻がすべて担っているんです。 北欧の山小屋風のデザインは妻が色々調べて見つけました。実際に横浜市にあるモデルルームに行ってみると、緑が映えるし、花の色も際立つように思いました。 木や土を感じられるから、「洋生ケーキはもちろん、焼菓子にも力を入れていきたい」「焼きたての鮮度の良いお菓子を提供したい」という私たちのイメージに合っていたんです。


▲四季折々で変わるコンフィチュールの種類。今はいちごや清見オレンジ、日向夏や杏などが並ぶ
―――「作り置きをしない」とは具体的にどのようにしておられるのでしょう? 例えばスポンジカステラは毎朝作ります。余っても翌日のショートケーキなどには使わず、焼いてから1日~2日経ったものの方が扱いやすい商品…アプフェルシュトゥルーデル(9月のみ、スポンジカステラを下に敷いて、りんごを並べて焼く)のようなお菓子に使うようにしています。 
▲練乳が甘く香るいちごのムース「ラフレーズ」。15時頃のショーケースには”このお皿で最後”と書かれたケーキもちらほらとあった
―――毎日いちから作るのはとても大変なように思います。なぜここまで「お菓子の鮮度」にこだわっているのでしょうか? 自分が「売りたいものを売る」のではなく、「買いたいものを売る」ことを大切にしたいのです。 うちの店の販売スタッフには、欠けていたり小さかったりなど「自分がお客様の立場になった時、ちょっと買いたくないな」と思ったものは下げてもらうようにしています。 販売員はリリエンベルグが好きで入ってきた人ばかり。うちのお客様でもあるわけです。 だからどんな商品も自信をもって売ってもらいたい。 パートさんであっても、「これちょっと困りますから直してください」と臆せずに言える雰囲気を大切にしているし、製造の方でも「この程度なら大丈夫」とは極力言わないようにしています。 品質管理の考え方で『後工程はお客様』という言葉があります。 自分の仕事の後工程を引き継いでくれる人はお客様だと思いましょう、という意味ですね。 製造から見れば、販売はお客様と同じこと。スタッフにはその判断を重要視するように伝えていますね。

「叱り方の視点を変える」。自身の修業体験で得たもの


▲店舗休業日数は、2019年は94日。スタッフの年間休日は105日を確保している。休むときは休み、仕事以外のことも楽しもう、という方針。
その後私はヨーロッパに出ました。修業のやり直しです。 慣れない土地で、指示は早口のドイツ語。とても聞き取れず、失敗ばかりしていました。 このままだとクビになるのではないかっていう恐怖心がありましたね。 その時、私のことを聞いた製造の責任者が「今日は1日、横溝と一緒に仕事する」と言ってくれたんです。当時担当していたデニッシュペストリーの仕事をずっと見てくれた。すると、水分量が極端に少なかったのが失敗の原因だったんです。 失敗するたびに先輩たちが「水の量を減らせ」と言っていたので、生地が余計伸びなかった。 原因がわかってからは、きちんと作れるようになってホッとしましたね。 と同時に、自分がこの店のチーフだったら、めちゃくちゃに叱ってダメにしてしまっただろうなとも怖くなりました。 今、うちにも今新入社員が入ってきたばかりですけれど、お店では「その子がした失敗は教えた人間の失敗、指導の仕方や視点を考えろ」だと教えています。 失敗をただ怒ったところで覚えが良くなるわけではありませんからね。リリエンベルグでしか楽しめないような魅力づくりを目指してきた


▲リリエンベルグの看板商品のひとつ『ザッハトルテ』。ウィーンの「デメル」で学んだ伝統菓子の良さを大切に、口当たり軽く仕上げられている
そして、販売やサービスも、製造以上に大事にすべき部分があると思います。うちの店のティールームは14席で、1日10回転するほどお客様がいらっしゃるけれど、トイレはいつもきれいに。たばこも分煙じゃなくて禁煙です。スタッフにも喫煙者はいません。吸わない人にとって、たばこの匂いは気になるもの。誰もが気持ちよく食べて楽しんでもらえるように徹底しています。 今、お菓子はコンビニでも美味しく味わえる時代です。 だからこそ、作りたてや鮮度にこだわったお菓子を、上質なサービスで楽しんでいただきたいと思うのです。
▲柔らかな日差しが入るティールーム。定休日以外の平日のみ営業で、繁忙期の11~12月はお休みにしている
―――リリエンベルグでしか楽しめないような魅力づくりをしてきた結果が、多くの人を惹きつけているように思います。ここまで来るのにご苦労なさったことなどもあったのではないでしょうか? 色々ありましたよ(笑)ケーキの種類が少ないと言われることはしょっちゅうでしたし。 バブルがはじけた後は売上が落ちるんじゃないかと心配したけれど、逆に上がったんです。 ―――えっ、なぜでしょうか? 以前、お中元やお歳暮としてお菓子を高級デパートで購入していたお客様が、「もうちょっと値段を下げよう」と、リーズナブルに購入できるリリエンベルグに来られるようになったんですね。 ただ、売上が上がって嬉しい反面、そうした方とのトラブルが結構ありました。 ―――どんなトラブルがあったのですか? うちではケーキでも焼菓子でも、小さい箱にスキマなくギュッと並べてお渡ししています。 以前「3000円のケーキを作って」と注文が入った時、いつものようにお出ししたら「客先に持っていくのにこれでは見栄えが悪い。ひとまわり大きな箱にクッション材を詰めて、豪華に見えるようにしてほしい」と言われてしまったんです。
▲焼菓子で一番人気の『ミックスクッキー』。仕切りや緩衝材などは使わず、小さなパッケージにスキマなく入っている
でもオープン時からずっと、こういう依頼はすべてお断りさせていただいています。 ギフトの場合、最終的に召し上がるのは買った方ではなく贈られた方です。買った人は上げ底にすることで、すごく良いものを差し上げた気になれるかもしれない。しかしそれだと、ギフトを贈られた方に本当の満足はお届けできません。逆に上げ底であることにガッカリされてしまう可能性もあります。 大きさのない箱を開けたときに、意外とお菓子がしっかりつまっていて、実際食べてもおいしい……すると、ギフトを贈られた方も満足感を得られます。 このように、私たちのお菓子を召し上がっていただく方に満足していただけるつくりにしているんです。 今ではギフトを買われるお客様も、その信念を理解してくださるようになりましたね。
▲リリエンベルグには10年以上勤めるスタッフも多数。シェフと奥様は「ここで働けて良かった」と思ってもらいたいと日頃から心を配っている
―――リリエンベルグには40名以上のスタッフさんがいるそうですね。また横溝シェフは外部講師として様々な専門学校への指導も行っているとか。たくさんの若いスタッフさんを見てきて、「こうした方がいいのでは」と思うことはありますか? 「お店のためにではなく、自分のために働く」という想いを持っている人は、若くても成長が早いなと思います。 うちの店には社員だけでなくアルバイトの方も多くいます。以前、製菓の専門学校に入学したばかりの子が「研修させてほしい」と言ってきました。2年間しっかりアルバイトで勤め、卒業の段階で改めて「就職させてください」と。断る理由はありませんよね。製造だけじゃありません。販売でもヴァンドゥーズ(お菓子専門販売員)になりたいとフランス語を勉強し、1年うちを休職して現地で修業をしてから復職したスタッフもいます。 やる人とやらない人の差はこうした意識や努力の差から生まれてくると思うんです。 実働8H、残業なしの職場はいいけれど、それで満足していたら自分の実力は頭打ちになります。 例えば、お休みが週2日あるなら1日は別の店で修業させてもらう。それを3年続けたら、辞める頃には2つの店の技術が身についていることになりますよね。決してブラック企業をよしとしているわけではありませんが、職人として大きく伸びていきたいなら、やはり定時以上の努力は必要です。 「自分はどんなパティシエになりたいか」を考えながら、目指す道を進んでいってほしいと思いますね。