ジャン=ポール・エヴァンといえば、日本でも多数のブティックを構えるショコラトリーとして有名な人物です。
しかし意外にも「子供のころは自分がショコラティエになるとは思ってもみなかった」というエヴァン氏。
実は彼のショコラティエとしての才覚は、パティシエとしてのキャリアからスタートしたものでした。
今回は、ジャン=ポール・エヴァン氏についてご紹介します。
フランス西部、マイエンヌ県で子供時代を過ごしたエヴァン氏は、甘いものが大好きな父のためにお菓子を焼くような少年でした。
当時、電子工学の勉強にも励んでいましたが、16歳でパティシエになることを決意。
製菓学校を卒業後、18歳でパリの有名ホテルであるインターコンチネンタル・ホテルに就職し、翌年からホテル・ニッコー・ド・パリで勤め、24歳の時にはシェフパティシエとなるほどの才能を発揮していました。
さらに、ここでフランス料理界の巨匠ジョエル・ロブションと出会い、指導を受ける中で、芸術的な感性を磨いていきます。
その後、フランスの有名パティスリー ペルティエの東京支店のシェフパティシエを1年半勤めました。
その間にも自身の技術を磨くために数々のコンクールに参加し、シャルル・プルースト杯で優勝、クープ・デュ・モンドで優勝、チョコレート国際コンクールで優勝など、あらゆる賞を総なめにしてきました。
このことは当時のフランスのパティシエ界における快挙であり、エヴァン氏の名をトップパティシエとして広めるきっかけとなりました。
そして29歳の時には、パティスリー・コンフィズリー部門でMOFを受賞。
MOFとはMeilleur Ouvrier de Fanceの略で、フランス国家最優秀職人の意味。
日本でいうなら人間国宝に値するような栄誉あるものです。
若干29歳でのMOF受賞は、エヴァン氏を本物のアルチザン(職人)であることを証明し、国内のみならず世界からも注目されることとなりました。
MOFの受賞以降、製菓学校の時からお気に入りの素材であるショコラに特化し、その研究とショコラ作りに情熱を注いでいた結果、今のトップショコラティエとしての地位を確立したのです。
今や、エヴァン氏はチョコレート業界の法王とも呼ばれています。

またエヴァン氏は日本とも関わりが深く、「日本は大好きな第二の祖国」というほど大の親日家です。
最初の日本文化との関わりは、動作の正確さとエレガンスのために、日本の武術を学んでいたこと。
そして、日系ホテルであるホテル・ニッコー・ド・パリに勤めたことをきっかけに、さらに日本文化・習慣を知っていきます。
ペルティエの東京支店のシェフパティシエとして来日した際には、日本の厳格な美意識に感銘を受け、自身の作品にも取り入れられました。
そして独立後、海外初出店の地はやはり大好きな日本。
ここでも彼のショコラは多くの人を虜にし、バレンタインが近くなると数時間待ちの長蛇の列ができることでも有名になりました。
日本経済新聞でも一流ショコラティエとして紹介され、ジャン=ポール・エヴァンの日本上陸は高級チョコレートブームの火付け役となりました。
その後もエヴァン氏は様々な取り組みを行っています。
カカオ豆からチョコレートまでを自社で独自に生産する「Bean-to-Bar」の取り組みや、店舗内に「ショコラ・バー」を設けるなど、常に新しいアプローチを模索する姿勢も、多くのファンを持つ理由ではないでしょうか。
58歳になる今でも情熱をもって仕事と向き合い、努力を惜しまないエヴァン氏は、日本、そしてフランスのショコラティエの頂点に君臨しています。